どうもDimです。今回は「明治、大正、昭和の日本の知られざる大物・偉人・国士シリーズ:高橋是清(これきよ)」について解説します。

高橋是清とは、明治から昭和にかけて活躍した政治家で、日本の財政や金融政策に大きな影響を与えた人物です。

幕末の江戸で生まれ、若い頃はアメリカで奴隷として働いたり、銀鉱事業に失敗したりと波乱万丈の人生を送りましたが、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任し、「財政の天才」と呼ばれました。

二・二六事件で暗殺されるまで、日本の近代化と経済発展に貢献しました。

先に結論を言います!

・高橋是清は明治から昭和にかけて活躍した政治家で、日本の財政や金融政策に大きな影響を与えた人物です。
・幕末の江戸で生まれ、若い頃はアメリカで奴隷として働いたり、銀鉱事業に失敗したりと波乱万丈の人生を送りました。
・日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任し、「財政の天才」と呼ばれました。
・二・二六事件で暗殺されるまで、日本の近代化と経済発展に貢献しました。

高橋是清の生涯

1. 幕末から明治へ

高橋是清は1854年(嘉永7年)に幕府御用絵師の子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)で生まれました。

生後まもなく仙台藩足軽の高橋覚治の養子になりました。1864年(元治元年)からヘボン博士の塾(後の明治学院)で英語を学びました。

1867年(慶応3年)に藩命により勝海舟の息子・小鹿とともにアメリカへ留学しましたが、渡米後に待っていたのは奴隷契約でした。

渡米の手配を頼んだアメリカ人貿易商ユージン・ヴァン・リードに学費や渡航費をだまし取られ、さらにホームステイ先でもだまされて年季奉公の契約書にサインさせられた高橋少年は、ブドウ園や牧場などで労働を強いられました。

しかし彼はこれを「キツイ勉強だ」と思って耐え、英語の会話と読み書き能力を習得しました。1868年(明治元年)に帰国しました。

帰国後の1873年(明治6年)、森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となりました。

英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(後の開成学園)を進学予備校として再起させ、その学校長も一時務めました。

教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいました。

2. 官僚から実業家へ

その間、文部省や農商務省の官僚としても活躍し、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えました。

1889年(明治22年)には官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行いましたが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友・山口慎と苦労を分かち合いました。

1892年(明治25年)に帰国した後にホームレスとなりましたが、川田小一郎に声をかけられて日本銀行に入行しました。

3. 財政家としての活躍

日本銀行では次第に頭角を現し、日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かいました。

投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念がありました。それに対し高橋は、

– この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
– 支払い能力は関税収入である。
– 中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例がある。

と反論しました。

関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外国人に税関管理を任せたことはなく、今後もそのようなことはない」と断固拒否しました。

結果的に、日本はイギリスでの公募に成功し、戦費調達に大きく貢献しました。

1906年(明治39年)には日本銀行総裁に就任し、金本位制の復活や銀行券の発行制限などを行いました。

1908年(明治41年)には大蔵大臣に就任し、関税自主権の回復や所得税の導入などを推進しました。

1913年(大正2年)には第2次桂内閣で再び大蔵大臣となり、第一次世界大戦での戦争景気を利用して国債を償還したり、日本銀行と政府の協調体制を築いたりしました。

1915年(大正4年)には第2次大隈内閣で外務大臣となり、対中政策や対米交渉などを担当しました。

1916年(大正5年)には第1次護憲運動で成立した第1次山本内閣で再々度の大蔵大臣となり、金融恐慌やインフレーションへの対策を行いました。

1920年(大正9年)には第2次原内閣で再度外務大臣となり、ワシントン会議で日本の国際的地位を確保しようと努めました。

1923年(大正12年)には第1次山本内閣で再々度外務大臣となり、関東大震災後の外交問題や国際連盟への参加などを行いました。

4. 暗殺されるまで

1924年(大正13年)には第2次護憲運動で成立した第1次加藤高明内閣で再々々度の大蔵大臣となり、金解禁や財政再建などを目指しました。

しかし、1927年(昭和2年)には金解禁が失敗し、金融恐慌が発生しました。

高橋は金融引き締め策や歳出削減策を実施しようとしましたが、これらの政策は軍部や政党から反発を受けました。

1930年(昭和5年)にはロンドン海軍軍縮会議で日本が不利な条件を受け入れたこともあり、高橋は「国賊」と呼ばれるようになりました。

1932年(昭和7年)2月26日、高橋は自宅から出かける途中に陸軍士官学校生徒らによるクーデター未遂事件(二・二六事件)の一環として暗殺されました。

彼は死ぬ間際まで「私は国家のために尽くした」と言っていたと言われています。

高橋是清の功績

1. 財政・金融政策

高橋是清は日本銀行総裁や大蔵大臣として、日本の財政・金融政策に多大な影響を与えました。

彼は金本位制の復活や金解禁を目指し、日本の通貨の国際的信用を高めようとしました。

また、戦費調達や国債償還などを通じて、日本の財政基盤を強化しようとしました。

さらに、関税自主権の回復や所得税の導入などを通じて、日本の財政収入を増やそうとしました。

彼は財政・金融政策においては常に合理的で現実的な判断を下し、日本の経済発展に貢献しました。

2. 特許制度

高橋是清は農商務省特許局長として、日本の特許制度を整えました。

彼は1885年(明治18年)に制定された特許条例を改正し、1888年(明治21年)に特許法を施行しました。

この特許法は、発明者の権利保護や審査制度の導入など、近代的な特許制度の基礎を築きました。

また、高橋は特許庁の組織や人事を整備し、特許庁職員の教育や研修も行いました。

彼は日本の産業発展に欠かせない知的財産権の確立に尽力しました。

3. 外交政策

高橋是清は外務大臣として、日本の外交政策にも大きな影響を与えました。

彼は日露戦争後の対中政策や対米交渉などで、日本の国際的地位を確保しようと努めました。

また、ワシントン会議や国際連盟への参加などで、国際協調主義や平和主義を推進しようとしました。

彼は日本が孤立化することを恐れて、外交面でも合理的で現実的な判断を下し、日本の国益を守ろうとしました。

今日のまとめ

今回は「明治、大正、昭和の日本の知られざる大物・偉人・国士シリーズ:高橋是清」について解説しました。高橋是清は明治から昭和にかけて活躍した政治家で、日本の財政や金融政策に大きな影響を与えた人物です。

幕末の江戸で生まれ、若い頃はアメリカで奴隷として働いたり、銀鉱事業に失敗したりと波乱万丈の人生を送りましたが、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任し、「財政の天才」と呼ばれました。

二・二六事件で暗殺されるまで、日本の近代化と経済発展に貢献しました。彼は財政・金融政策や特許制度や外交政策などで多くの功績を残しました。

みなさんのお役に立てば幸いです。それでは良い1日を!