どうもDimです。今回は『明治、大正、昭和の日本の知られざる物凄い大物・偉人・国士シリーズ:アラビア太郎』について解説します。

このシリーズでは、過去の偉人のエピソードとその大きな志を知る事でスケールの大きさを感じましょう。

アラビア太郎とは、明治から昭和にかけて活躍した実業家・山下太郎の通称です。

山下太郎は、満州で巨万の富を築いた後、敗戦で一文無しになりましたが、69歳でアラビア石油を創業し、中東で日本初の石油開発に成功しました。

その驚くべき人生と業績について、解説します。

先に結論を言います!

-アラビア太郎こと山下太郎は、明治時代に満州で鉄道や不動産事業で成功し、現在の価値で数兆円を稼ぎましたが、敗戦で全財産を失いました
-戦後の日本が欧米資本に依存している石油事情を憂い、69歳でアラビア石油を設立しました
-世界から「山師」と揶揄されながらも、サウジアラビアやクウェートの沖合にある中立地帯で「日の丸油田」を打ち立てました
-日本の石油自給率を向上させるだけでなく、中東諸国との友好関係や経済協力にも貢献しました

1. 満州太郎と呼ばれた男

山下太郎は、1874年(明治7年)4月24日に秋田県平鹿郡大森村(現在の横手市)の旧家に生まれました。

父親は近藤正治といい、農業を営んでいました。母親はみつといい、山下太惣吉・ひさ夫妻の娘でした。山下太惣吉は大森村の名主を務めた人物でした。

山下太郎は近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれましたが、祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となりました。

これは、山下太惣吉が男子に恵まれなかったためです。山下太郎は祖父母の姓である山下を名乗りました。

山下太郎は祖父母の手で育てられましたが、祖父はまもなく死去しました。

祖母は山下家の家督を継ぐために厳しく教育しました。山下太郎は幼い頃から勉強や礼儀作法を身につけました。

1-1.上海に渡る

山下太郎は大森小学校4年を修了しましたが、農業に興味がなく、外国に憧れていました。そこで16歳の時に上海に渡りました。

そこで英語や中国語を学び、貿易会社に勤めました。上海では日本人社会の中心人物となりました。

彼は商才に長けており、貿易や仲買いで利益を上げました。また、日本人の教育や福祉にも貢献しました。

彼は上海で10年間暮らしました。

1-2. 満鉄に入社する

1904年(明治37年)、日露戦争が勃発しました。山下太郎はこの戦争に関心を持ち、満州に行くことを決意、南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社しました。

満鉄では、社宅や倉庫などの建設工事を担当しました。山下太郎は、工事現場の管理や資材調達などに長けており、多くの利益を上げました。

また、満鉄の土地を安く買い取り、高く売りつける不動産取引も行いました。このようにして山下太郎は満州で莫大な財産を築き、「満州太郎」と呼ばれるようになりました。

1-3. 満州太郎の財産

山下太郎は満州で得た財産を日本に送金し、東京や大阪などの都市部で土地や株式などを買い漁りました。

また、自らも多くの会社を設立し、鉄道や電力、石炭などの産業に進出しました。山下太郎は、満州だけでなく日本でも有数の大富豪となりました。

山下太郎の財産は、1945年(昭和20年)の敗戦時には約10億円に達していました。これは、当時の一般的なサラリーマンの年収が約1000円だったことを考えると、驚異的な額です。

しかし、敗戦によって山下太郎は満州での財産をすべて失いました。また、日本でも財産税や戦災によってほとんどの財産を失いました。山下太郎は一文無しになりました。

2. アラビア石油を創業した男

山下太郎は、敗戦後も諦めませんでした。彼は、戦後の日本が欧米資本に依存している石油事情を憂い、自ら石油開発に乗り出すことを決意しました。

彼は、69歳でアラビア石油株式会社を設立しました。この会社は、中東で日本初の石油開発を目指す会社でした。

山下太郎は、中東で石油開発を行うために、多くの困難に直面しました。まず、中東の石油権益は欧米資本がほとんど握っており、日本には入り込む余地がありませんでした。

また、中東諸国との交渉も難航しました。中東諸国は日本を信用せず、高額な条件を要求しました。

さらに、日本政府や日本国内の石油業界も山下太郎の計画に協力しませんでした。彼らは山下太郎を「山師」と揶揄し、彼の計画を非現実的だと批判しました。

しかし、山下太郎は諦めませんでした。彼は自ら中東に赴き、各国の王族や政府関係者と交渉しました。

彼は英語や中国語だけでなく、アラビア語も学びました。彼は中東諸国の文化や宗教に敬意を払い、彼らと親交を深めました。

彼は自分の信念と情熱を伝えることで、中東諸国から信頼を得ることができました。

2-1. 日の丸油田を打ち立てた男

山下太郎は、1957年(昭和32年)12月に念願の成果を得ることができました。

彼はサウジアラビア政府と利権協定を結び、サウジアラビアとクウェートの沖合にある中立地帯(現在では両国間の国境地帯)で石油開発を行うことができるようになりました。

この地域は世界有数の石油埋蔵量を持つ地域でした。

山下太郎は早速探査・掘削作業に着手しました。しかし、作業は困難を極めました。中立地帯は砂漠であり、水や食料などの生活物資が不足していました。

また、気温は50度を超える日もあり、作業員は熱中症に苦しみました。さらに、掘削した井戸からは水やガスばかりが出てきて、石油が見つかりませんでした。

しかし、山下太郎は諦めませんでした。彼は自ら現場に赴き、作業員を鼓舞しました。彼は「日本のために頑張ろう」と言いました。彼は自分の財産をすべて投じて、掘削作業を続けました。

そして、1960年(昭和35年)2月に奇跡が起きました。山下太郎が掘削した第4号井から、黒い液体が噴出しました。それは石油でした。山下太郎はついに「日の丸油田」を打ち立てたのです。

3. 日本の石油自給率と中東との関係に貢献した男

山下太郎が開発した「日の丸油田」は、日本の石油自給率を向上させるだけでなく、中東諸国との友好関係や経済協力にも貢献しました。

「日の丸油田」は、1960年代から1970年代にかけて日本の石油需要の約10%をまかなうことができました。

これは、日本が欧米資本から石油を輸入するよりも安く、安定的に石油を入手することができることを意味しました。

また、「日の丸油田」は、1973年(昭和48年)に起きた第一次オイルショックや1979年(昭和54年)に起きた第二次オイルショックの際にも、日本に石油を供給し続けました。

これは、山下太郎が中東諸国と築いた信頼関係のおかげでした。

山下太郎は、中東諸国との友好関係や経済協力にも貢献しました。彼は、中東諸国の王族や政府関係者と親交を深めるだけでなく、中東諸国の社会や文化にも理解を示しました。

彼は、中東諸国の教育や医療などの社会事業にも積極的に協力しました。

また、彼は日本政府や日本企業とも連携し、中東諸国との貿易や技術移転などの経済交流を促進しました。彼は中東諸国から「アラビア太郎」と呼ばれるようになりました。

3-1. アラビア太郎の功績

山下太郎は、1981年(昭和56年)に90歳で亡くなりました。彼は生涯現役であり、最後までアラビア石油の社長を務めていました。

彼は自分の遺言で、「私の遺産はすべてアラビア石油に寄付する」と言いました。彼は自分の財産を日本の石油事業に捧げました。

山下太郎の功績は、日本だけでなく中東諸国からも高く評価されました。彼はサウジアラビア政府から「王冠勲章」を、クウェート政府から「解放勲章」を授与されました。

これらは、中東諸国が外国人に授与する最高の勲章です。また、彼は日本政府からも「勲一等瑞宝章」を授与されました。これは、日本が民間人に授与する最高の勲章です。

山下太郎は、日本の石油自給率と中東との関係に貢献した男でした。

今日のまとめ

今回は『明治、大正、昭和の日本の知られざる大物・偉人・国士シリーズ:アラビア太郎』について解説しました。

アラビア太郎こと山下太郎は、明治時代に満州で鉄道や不動産事業で成功しましたが、敗戦で全財産を失いました。

しかし、彼は戦後の日本が欧米資本に依存している石油事情を憂い、69歳でアラビア石油を設立しました。

世界から「山師」と揶揄されながらも、サウジアラビアやクウェートの沖合にある中立地帯で「日の丸油田」を打ち立てました。

日本の石油自給率を向上させるだけでなく、中東諸国との友好関係や経済協力にも貢献しました。

みなさんのお役になれば幸いです。それでは良い1日を!